高知県には1000年を超える和紙づくりの歴史があります。特に仁淀川流域では山間部で楮・三椏などの和紙の原料が栽培され仁淀川を下って原料が運ばれました。また下流域では豊富でかつ清浄な地下水を利用して和紙づくりが盛んに行われ、江戸時代には土佐藩の名産品として全国に名前を知られていました。最盛期には数千軒の手漉きの家があったと伝えられています。明治になり、吉井源太翁により、生産の改良・用途の開発が行われる一方、西洋から抄紙機による大量生産が導入されました。
昭和20年代から30年代にかけ、紙の需要の増大に伴い、高知県でも手漉きから機械抄きへの転換・大手企業の出資等により、多くの 会社が産声をあげました。土佐京花紙・障子紙などは当時全国に名をとどろかせたものでした。昭和40年代にはいり、ティシュペーパーがアメリカから入ってきて、土佐京花紙の技術との融合により、土佐独自の高品質のティシュが開発されました。一時は銀行等のサービス品としてのBOX・ポケットティシュ、あるいは子供向けのキャラクターをプリントしたティシュで全国でのシェアを大きく伸ばした時期がありました。その後、大手企業の参入・価格競争の激化などにより、しだいにシェアを落とす中で、ある企業は特殊な用途への転換あるいは不織布への進出等により、それぞれの企業がニッチな市場 への展開をはかっています。
こういった変遷のなか、各企業の要望・行政からの支援もあり、昭和33年に高知県製紙工業会が発足をしました。環境の変化のなかで平成8年に社団法人化をし、平成24年に一般社団法人高知県製紙工業会に改組して現在にいたっています。
紙はもともと単独で使われる例は少なく、筆記・印刷などの情報伝達の用途、包装などの装飾・保護の用途・・・いずれの場合も主役は紙ではありません。が、その故に多くの他業界との接触があります。紙は文化のバロメーターといわれるのもこのことからです。
ネットの発達・技術革新により、紙が無くなるといわれていましたが決してそうはなっていません。むしろ新しい要求がおこり、対応することで紙の新分野が生まれています。今後とも紙は姿を変えて われわれの身のまわりにさまざまなかたちで、あるいは見えないところにも多く存在をしていくと信じます。
高知県製紙工業会のホームページを開設するにあたり、各参加企業の情報発信・多くの顧客からの情報受信に寄与することを願いごあいさつとします。
昭和20年代から30年代にかけ、紙の需要の増大に伴い、高知県でも手漉きから機械抄きへの転換・大手企業の出資等により、多くの 会社が産声をあげました。土佐京花紙・障子紙などは当時全国に名をとどろかせたものでした。昭和40年代にはいり、ティシュペーパーがアメリカから入ってきて、土佐京花紙の技術との融合により、土佐独自の高品質のティシュが開発されました。一時は銀行等のサービス品としてのBOX・ポケットティシュ、あるいは子供向けのキャラクターをプリントしたティシュで全国でのシェアを大きく伸ばした時期がありました。その後、大手企業の参入・価格競争の激化などにより、しだいにシェアを落とす中で、ある企業は特殊な用途への転換あるいは不織布への進出等により、それぞれの企業がニッチな市場 への展開をはかっています。
こういった変遷のなか、各企業の要望・行政からの支援もあり、昭和33年に高知県製紙工業会が発足をしました。環境の変化のなかで平成8年に社団法人化をし、平成24年に一般社団法人高知県製紙工業会に改組して現在にいたっています。
紙はもともと単独で使われる例は少なく、筆記・印刷などの情報伝達の用途、包装などの装飾・保護の用途・・・いずれの場合も主役は紙ではありません。が、その故に多くの他業界との接触があります。紙は文化のバロメーターといわれるのもこのことからです。
ネットの発達・技術革新により、紙が無くなるといわれていましたが決してそうはなっていません。むしろ新しい要求がおこり、対応することで紙の新分野が生まれています。今後とも紙は姿を変えて われわれの身のまわりにさまざまなかたちで、あるいは見えないところにも多く存在をしていくと信じます。
高知県製紙工業会のホームページを開設するにあたり、各参加企業の情報発信・多くの顧客からの情報受信に寄与することを願いごあいさつとします。
平成28年10月
一般社団法人高知県製紙工業会